詩人の石垣りんさんは大手の銀行で事務員をしていた。戦後20年を迎えたとき、戦没者となった行員105人の名を社内の新聞が載せたという◆その折に一編の詩をしたためている。<ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる…たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間/あなたはいま/どのような眠りを/眠っているだろうか>「弔詞」◆戦後20年の夏であれば小欄は2歳にもなっていない。戦争を知らない身で戦争をどうコラムに書けばいいか、そっと教えてくれるようで時々見返している◆まず一つの答えは悼むことだろう。戦没者一人ひとりに海老原さんのような人生があったことを。不戦の誓いを継ぐには、戦争を知らない世代に小さくない責任がありそうである。先の詩はこう結ばれる。<皆さん、どうかここに居て下さい>。犠牲者に呼びかけ、引き留め、今を生きる人に二度と戦争をさせないよう願いをささげている◆きょうの終戦の日、石垣さんに倣い、どうか…とつぶやいてみる。
8月15日 よみうり寸評
先頃亡くなった英文学者、外山滋比古さんがふるさとの風習を随筆で紹介している。一升ますにつきたての白餅を入れて男児に食べさせたという◆一生の間に城持ちになれるよう祈願する儀式だったが…。〈悪童連の多くが、城持ちはおろか、家もなさないうちに、戦争で死んで行った〉◆こうした理不尽の集積として犠牲者310万人の数字が残る。では終戦の日が8月15日でなかったら――中公文庫の新しい一冊『新編「終戦日記」を読む』(野坂昭如著)に考えさせられた。野坂さんは6月5日の神戸空襲で養父を失い、疎開先で妹をなくしている。〈六月一日に終わっていれば〉。癒えない苦悶 が吐露される◆75回目の終戦の日に思う。この大切な日の前にも幾度か鎮魂の日がある。3月10日(東京大空襲)6月23日(沖縄戦終結)8月6日、9日(広島、長崎への原爆投下)…引く時機を失し、惨禍の連鎖をゆるした結果が先の数字だろう◆なぜ誤ったか。早世した〈悪童連〉から問い続けるべきテーマを投げかけられる。
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