2020/6/29 ~いま風 金曜日~
日をめくる音
コロナが崩した老後像
知らぬ間に八十代も後半に入り、九十代が近づいて来た。知らぬ間に、というのは実はウソで、一年、一年を、身の底で数えるうちに、ふと気がつくと九十代がすぐそこに立って待っている。
父親の他界したのが九十歳であったので、その年齢が特別に高いものである、との意識はあまり強くない。
生まれてからそれなりの歳月が経てばそして幸いにして戦争の被害や病気によりダメージが決定的なものでなければ、人は九十歳ぐらいまではなんとか生きるものなのだろう、との感じが自然に身についたのかも知れない。
そしてそれだけの歳月をなんとか生き続ければ、人は自然に九十代に達するのだ、と考えていたらしい。
隣接した家に住む父親を自然に見習うようにして、こちらも歳を重ねる日々を送り迎えしていた。父より五歳ほど若い母親も当時は元気であったので、穏やかな老後の暮らしというのはそうゆうものか、と自然のうちに考えるようになっていた。つまり、八十代の終りはあんなふうにして過ぎていくものなのだろう、と感じたり、考えたりしていたのだ、と思われる。
そんな老後の枠組を、あっという間に突き崩してしまったのが、この春に入ってからの新型コロナウイルスの感染拡大である。これまでも冬が近づくと流行性感冒の予防注射は受けていたが、今回のものは従来とは少し事情が違うらしい。当のウイルスの活動を阻むワクチンがまだ作られていないらしい。つまり、ウイルスの感染を阻む手立てがまだ人間には与えられていないようなのだ。
ーなんとなく、あたりの様子がおかしくなって来た。戦う武器がないからか、予防と逃げが中心になる方向が対コロナウイルスの姿勢の中に現われた。
手洗いやウガイやマスクの使用が求められる点は、従来の流行性感冒への対策とあまり違わないかもしれない。
しかし人と話す際はニメートルの間隔をあけるようにとか複数の人間が同じ場所にいる場合、密集や密閉や密接を避けるようにとか、あまり耳にしない指示が聞えて来るようになった。
考えてみれば、これは人間が人間同士で人間らしく触れ合うことを禁ずる、いささか 非人間的な指示である。遠距離・プラトニック恋愛ででもなければ、人と人との恋愛関係など認められぬことになるのかもしれない。
もう一つ、オヤ、と思わせられる話が聞えて来る。ー 新型コロナウイルスは、なくなるものではない。だから、絶滅や一掃をはかるのではなく共存する方向を探るべきだ、との声が聞えるようになった点である。
-なにかが前とは違うような気がする。大きな新しい変動が人間に迫り、人間を襲おうとしているのではないかとの不安。
そしてこれは、戦争の予感などといった人間同士の対立の気配を越えた、人類と自然との関係におけるより深刻な対立の空気とでもいったものが近づきつつあるのではないか、との不吉な予感を与える。
かって地球上に棲息していたという幾種類もの恐竜が自然に姿を消してい
おだろうか まだ我々がはっきりとは意識していないのだが、なにか冷たい予感が動いている。そしてそこでは、もはや従来の年寄り像などは通用しない。比較的早く死ぬ生き物の一種として扱われるのだろうか~。
黒井千秋
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