2020年7月3日金曜日







[論点スペシャル]コロナ死 投げかける課題





 新型コロナウイルスの感染による国内の死者数は、2日時点で1000人に迫っている。欧米などと比べれば数は大幅に少ないものの、有名人の相次ぐ突然の死や、患者の最期に十分な看取みとりのできない残酷な現実が国民に衝撃を与えた。コロナ禍による死が私たちに投げかける課題は何か。2人の識者に聞いた。(編集委員 山口博弥)
 





◆有名人の相次ぐ突然の死=コメディアンの志村けんさんは3月25日、新型コロナウイルスに感染して入院している事実が報道され、4日後の29日に死去した。70歳だった。4月23日には女優の岡江久美子さんが63歳で亡くなり、翌24日には外交評論家の岡本行夫さんが74歳で、5月13日には大相撲力士の勝武士しょうぶしさんが28歳で死去した。


やなぎだ・くにお 災害・事故、がん死、戦争死などを60年余取材。著書に「新・がん50人の勇気」「僕は9歳のときから死と向きあってきた」など。84歳。
やなぎだ・くにお 災害・事故、がん死、戦争死などを60年余取材。著書に「新・がん50人の勇気」「僕は9歳のときから死と向きあってきた」など。84歳。

 

「さよなら」言えぬ葛藤…ノンフィクション作家 柳田邦男氏

コロナ禍による死で最も大きな特徴の一つは、「さよならを言えない死」ということだろう。
 ウイルスに感染して入院した人に、家族は見舞いに行けず、亡くなる時に十分な別れも言えない。葬儀ではひつぎの故人の顔をなでたり花を入れたりすることもできず、火葬場では限られた人しか立ち会えない。
 そもそも死とは、呼吸や心臓が止まるという医学的な現象だけを指すのではない。そのしばらく前からの別れの時間を含めて、人の死なのだ。
 死んだら終わり、ではない。亡くなった人の豊かな精神性は、死後も家族や友人ら次の時代を生きる人たちの心の中で生き続け、支えてくれるエネルギー源にもなる。こうした精神的ないのちのことを、私は「死後生」と名付けた。
 このように、死とは幅の広いものであり、その過程できちんとした看取りができなければ、喪失による遺族の悲嘆は深くなり、心の傷が残ってしまう。
 コロナ禍の死は今回、現代社会が抱える多様な死の意味づけを浮かび上がらせたとも言える。
 太平洋戦争の戦地では、砲撃や爆撃、病気や飢えで大量の死者が出て、放置された遺体も多かった。遺族のもとには空っぽの遺骨箱が届く。遺族は、戦死の状況も知らされず、国家によって規定された「お国のための死」を受け入れることを強制された。
 2001年の米国の同時テロ、11年の東日本大震災での津波被害では、遺体が見つからない事例も多かった。遺族は、大切な人の死を確認できない「あいまいな喪失」に葛藤を抱えた。
 コロナ死は、きちんとお別れができないという意味で「あいまいな喪失」に近い。しかも、差別や偏見という別の問題が加わり、遺族のつらさは複雑になる。
 同じ病気でも、がん死はゆるやかな死と言える。家族との別れの時間もあり、人間らしい最期を迎えられる緩和ケアがここ30~40年の間に構築されてきた。しかし新型コロナのような「疫病死」では、病院死にもかかわらず、こうした体制が全く整備されていない。
 この問題を解決するためには、医療機関や行政が、オンラインの画像や音声を活用して家族の言葉かけや別れができる方法を開発、普及すべきだ。1000人近い過酷な死から学ぶことは多い。苦痛の緩和のあり方はもちろんだが、より良い別れの創造も重要だ。
 配偶者や子ども、恋人、友人の死は「二人称の死」と呼ばれる。医療従事者や行政は、「三人称の死」から一歩踏み込んだ「二・五人称の死」の視点を持ち、患者や家族に寄り添った対策を検討する研究班を発足させてほしい。

    差別・偏見 分断の危機…宗教学者 島薗進氏


しまぞの・すすむ 上智大実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所長。東京大卒。専門は宗教学と死生学。著書に「ともに悲嘆を生きる」など。71歳。
しまぞの・すすむ 上智大実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所長。東京大卒。専門は宗教学と死生学。著書に「ともに悲嘆を生きる」など。71歳。

 コロナ禍では、感染者や家族、治療に関わった医療従事者らへの差別や偏見が社会問題になっている。
 そもそも、感染症の人を忌避することは人類史とともに存在してきた。死体をけがれや不衛生と見る心性の背景には、感染症への恐怖もあり、遺体処理に関わる差別の要因にもなった。一方で、インドや中国には釈迦の遺骨「仏舎利」を奉納する文化があり、死者を手厚く葬る文化もあった。日本も次第に手厚く葬る方向に進んできた。
 近代になると、人類は次第に多くの感染症を制御できると感じるようになった。衛生状態も大きく改善した結果、人生の最期を丁寧に看取り、遺体も安全に処理できるようになった。
 しかし現代は、共同体が崩れ、1人で死んでいく人が増えた。近年、葬儀は簡素化し、通夜や葬儀を行わずに火葬のみを行う「直葬ちょくそう」も増えてきた。コロナ禍では、遺族が不本意ながら、この直葬を行わざるを得なくなってしまった。海外では、各地で医療崩壊に伴う死者の増加で、遺体の置き場所に困る例さえ見られた。今後、死者の尊厳が守られない傾向が増すかもしれない。
 コロナ禍で表面化した日本での差別や偏見は深刻だ。感染者の自己責任が問われ、まるで感染したことが悪いかのように受け取られている。こうなると、遺族は大切な人の死を隠さざるを得なくなり、その悲しみや苦しみが人々の目に見えてこない。
 遺族の悲嘆に多くの人々が寄り添った大震災と異なり、ともに死の悲しみを分かち合うことができず、むしろ分断と孤立へと向かっているかのようだ。
 問題を克服するには、まずは感染者の苦しみや遺族の悲しみ、感染リスクを背負いつつケアを続けた医療・介護関係者らの苦労を国民が知り、理解する必要がある。表面化しにくい事実を発掘するメディアの力に期待したい。
 日本より感染者も死者も圧倒的に多い米国では、黒人男性が白人警察官の暴行で死亡した事件を機に、人種差別への抗議活動が広がり、苦難を被る人々の悲しみを多くの人々が分かち持つ場になった。コロナ禍による死者も、差別される側の層で多く、格差社会への怒りが重なっている。分断ではなく、むしろ悲しみによる連帯の側面があるのではないか。
 ただ、欧米では人工呼吸器が不足し、救命の可能性が低い人には使わない「トリアージ」も一部で行われた。こうした「いのちの値踏み」が将来、日本でも起きると、死の悲しみの分かち合いはさらに難しくなる。新たな悲劇を生まないためにも、医療体制のさらなる強化が欠かせない。

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