2020年8月22日土曜日

2月、東洋大学グラウンドでの公開練習で走る桐生祥秀。東京五輪延期にも前向きなコメントが多い。© Number Web 提供 2月、東洋大学グラウンドでの公開練習で走る桐生祥秀。東京五輪延期にも前向きなコメントが多い。  陸上選手が次に新聞のトップを飾るとすれば、それはどんな話題だろう。
 ふとそんなことを考えたのは、春先に交わしたある選手との会話を思い出したからだった。
「多分、いや絶対、もう一度オレが9秒98で走っても新聞の一面にはならないんじゃないですか」
 声の主は、桐生祥秀。男子100mの前日本記録保持者だ。
 桐生には昨季、大きな変化があった。
 2017年に日本人として初めて100mを9秒台(9秒98)で走り抜け、日本最速の称号を手にしていたが、昨季ついにその座を9秒97を記録したサニブラウン・ハキームに奪われたのだ。さらには同学年の小池祐貴も歴代2位タイとなる9秒98を出し、9秒台のニュース的価値は総じて低くなりつつある。
 冒頭の発言はそんな状況を意識してのことだった。

目指しているのはただの日本新ではない。

「正直、抜かれたことに関しては悔しさしかないし、次はまた自分の番だと思っている。それこそあと0.02秒でもベストを更新すればまた日本新(記録)なので。ただ次のインパクトとしては9秒9台前半とかそれくらいを出したいですし、9秒8台を出せばまた一面を飾れるんじゃないですか(笑)」
 この春、桐生が熱心に取り組んでいたのがトップスピードを上げることだった。昨秋のドーハ世界陸上100m準決勝で桐生は序盤でリードを奪うも、終盤での伸びを欠き、結果3組6位と目標にしていた決勝進出を逃した。
 トップスピードを上げるということは、別の表現をすれば「もう1つ上のギアを持つ」ということだ。

東京オリンピックでの2つの目標。

「海外の9秒台を何度も出している選手って、トップに上げてからのスピードの維持が少し自分より長い気がするんですよ。世界陸上でも残り10mくらいで順位が後ろに行っちゃったので、トップスピードを上げて終盤をうまくカバーしたい。終盤まで力を残そうとするんじゃなくて、先行してリードを守るイメージです」
 そのための筋力強化であり、練習の工夫であるのだろう。ウェイトトレーニングでは昨年以上に負荷を加え、最高出力に耐えられるように体幹を意識的に鍛えていた。
 中でも目を引いたのが、120mにも及ぶ長いミニハードルを繰り返し、入念に走り込んでいた姿だ。距離が延びる中でいかに回転数を落とさずに脚を前に運べるか。終盤でも脚が流れないよう、細かいピッチを刻み続けることを体にしみ込ませているかのようだった。
 桐生には東京オリンピックで叶えたい2つの目標がある。
 1つは、個人で100mの決勝に残り、「そこでちゃんと勝負する」こと。もうひとつが、チームとして400mリレーで金メダルを獲得することだ。ただし、桐生も認識しているように、世界一へのハードルはかなり高い。
「リレーで言うと、今のアメリカ(昨季の世界陸上でぶっちぎりの金メダル)はバトンをつなぐだけであれだけの走力があるし、イギリスもバトンの受け渡しがめっちゃ速くなっている。本番までに日本の選手がどれだけ走力を上げられるか、結果はそれ次第だと思う。まあそこに向けて、僕自身はワクワクした気持ちがあります」
 緊張や不安ではなく、五輪に臨む心境を「ワクワク」という言葉で表現した。それはなにより、心の充実ぶりを映すものだった。

「五輪の延期は100%プラス」

東洋大卒業と同時にプロ宣言をし、結果がすべてという厳しい環境に身を置いてきた。世界を共に目指す「チーム桐生」を構成するコーチ、トレーナー、シューズ担当者への信頼は厚い。助言を得て取り組んできたメンタルトレーニングや肉体改造など、様々な仕掛けがうまくはまってきた実感があるのだろう。
 新型コロナ禍で五輪までの計画は練り直しを余儀なくされたが、桐生は春以降も一貫して「年々メンタルも肉体面も成長してきているので、東京五輪の延期は自分にとって100%プラス」と前向きなコメントを発し続けている。

「陸上人生で一番楽しい期間かもしれない」

そして迎えた今季初戦(8月1日)、北麓スプリントで桐生はレース2本目となる決勝でいきなり10秒04の好タイムを叩き出した。
 スタートの前傾姿勢からトップスピードに乗るまでの体の動きが滑らかで、一段の進化を伺わせる内容だったが、本人は「0台はもう何度も出しているので求めていない」と素っ気ない。むしろ「トップスピードがもう少し出ていたらベストを出せた」と悔しさすらにじませた。
 悔しさの裏側にあるのは、確かな手応えだろう。春先、桐生はこんなことも話していた。
「前までは世界選手権とか大きな舞台だと緊張しないようにとか色々考えていたんですけど、この前の世界選手権は適度に緊張もして、自分に期待してワクワクしている気持ちもあった。
 それはケガなく練習が積めたからでもあるし、たとえガトリンやパウエル選手が隣のレーンにいても、またいるわと思えるようになったのも大きい。陸上が自分の仕事になって、やらない(逃げる)選択肢がなくなったのはデカイと思う」
 そして、こうも言う。
「振り返ると、リオ五輪から東京までの3年半が陸上人生で一番楽しい期間かもしれないです。これだけ陸上に陽が当たって、世間が注目してくれることってないですから。プレッシャーには思わないですよ。楽しんでますね、今の状況を」

今季第2戦はセイコーゴールデングランプリ。

 心身ともに充実した状態で迎える今季第2戦は、今月23日開催のセイコーゴールデングランプリになる予定だ
 東京五輪のメインスタジアムになる新国立競技場で行われる初の陸上イベントで、小池祐貴、山縣亮太、多田修平、ケンブリッジ飛鳥ら国内のライバルが一堂に会す。そこでもし9秒97を破る日本新記録が誕生すれば、そのインパクトは新聞一面級だろう。
 コロナ禍で立ちこめる暗雲を振り払うような快走を、日本の韋駄天たちに期待したい。

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