むろん、これまでにも未確認の感染者がいたことは十分に考えられる。が、医師である妻と話していても、県外に比べて、入ってきているウイルス自体かなり少なそうだという体感的見解は一致していたものだ。
ちなみに、達増拓也知事は最近のインタビューでこんな発言をしている。
「感染者ゼロには、色々な要因があると思っていまして、岩手は1都3県、東京、神奈川、千葉、埼玉を合わせた面積より広く、人口密度が低い。県民性が真面目で慎重だということ。岩手県は日本の中でも外国との行き来が比較的少ないほうだという要因もあると思います」(文春オンライン)
なお、そこに付け加えるなら、知事自身の功績も見逃せない。外務省時代、今回のコロナ禍で一躍有名になった米国のジョンズ・ホプキンス大学の国際研究高等大学院に留学。学んだのは政治学だが、衛生学の重要性にも気づかされた。それゆえ、知事として対応にあたった東日本大震災でも被災地での感染症対策に力を入れることに。こうした経験が、コロナ禍での迅速かつ的確な対策につながったわけだ。
また、最近の岩手がコロナに対して、ゆるんでいたかというと、意外とそうではない。第2波到来ともいわれる今はもとより、全国的に落ち着いていた頃も含めて、ピリピリ感とビクビク感が持続されていたのだ。
病院も役所も飲食店も、岩手初のコロナ感染者は出したくないし、県民ひとりひとりだってそれにはなりたくない。田舎ゆえ、いざ感染が拡大したときの医療体制も不安だ。いわば、コロナゼロ県ならではの独特なプレッシャーを抱えていた。
そういえば、4月には、県内の病院が妊婦の受け入れをめぐり、混乱をきたしたことが報じられた。その実情は里帰り出産が予約されておらず、不慮の破水による飛び込み出産だったため、感染対策もあってやむをえない対応だったが、あのニュースで岩手のピリピリ&ビクビクムードを感じた人もいるだろう。
ただ、ここでいうピリピリやビクビクはそういう表立ったものではない。県や県民全体にどことなく漂う空気感だ。そして、それこそが岩手をコロナゼロ県にしていたのだと思われる。
これはどういうことかというと――。岩手ほど、自然を畏れ、敬い、戦うよりも共存しようとしてきた地域はなかなかない。筆者は東海地方の名古屋近郊と首都圏でそれぞれ20年前後をすごしたあと、岩手に移住して16年目になり、旅行では全都道府県を訪れているが、これは確信に近い実感だ。
なにせ、県名の由来からして、岩に押されたという「鬼の手形」の伝説。カッパや座敷わらしなどの妖怪もなじみ深い存在だ。また、コロナより熊のほうが怖いという人もいる。実際、全国のコロナ禍が落ち着いてきたので再開しようとした旅館の女将が熊に襲われ、再開が遅れるという出来事も起きた。
さらに、頻発する地震や津波だ。これほど自然の驚異を感じさせるものはなく、沿岸地区には「津波てんでんこ」という教えもある。津波のときは人のことなど考えず、てんでんばらばらで逃げて自分で助かろうとしろ、というものだ。
感染症も自然の驚異のひとつだし、簡単に勝てる相手ではない。そして、それは昔から避けるべき穢れをもたらすものでもある。それゆえ、岩手はコロナに対しても、逃げる避けるという方向で対処してきた。
その象徴が、PCR検査のほどよい少なさだ。テレビのワイドショーではいまだに、MCやコメンテーターが検査、検査と声高に主張しているが、その精度は不完全で、検査直後に陽性に転じることもある。科学の力を過信して、あの検査に頼りすぎることがない姿勢がかえって奏功していたのではないか。
また、石川県では少し落ち着いた時期に知事が観光客の歓迎をアピールしていたが、県内でクラスターが発生したことで発言撤回に追い込まれた。逃げる避けるが基本方針の岩手では、こういう事態も起きにくかったわけだ。
思うに、こうしたスタンスの背景には、反グローバリズム的な意識がある。欧米や最近の中国が主導するグローバリズムは、岩手にとって不自然でむしろ怖いものなのだ。たとえ、経済的なうまみがあっても、そこへの警戒心をゆるめることはない。
実際、県内最大の銀行である岩手銀行は、バブル期にも拡大戦略をとらず、おかげで崩壊後の痛手も少なかった。原子力発電所が作られそうになったときも反対運動がおこなわれ、実現はしなかった。その先頭に立った開拓保健婦で歌人の岩見ヒサは、著書にこう記している。
「土地を売り海を渡し大金を手にした六ケ所村の人たちは、現在幸せな生活を送っているのだろうか」(「吾が住み処ここより外になし」)
その六ケ所村のある青森県や北海道は、中国からの観光客や土地をめぐる投資の誘致に熱心だが、岩手はそうでもない。むしろ、県出身の後藤新平や新渡戸稲造が日本統治下の台湾で活躍した縁で、今も台北との航空便が存在していたりする。この中国より台湾という伝統も、コロナ対策には幸いした。
なお、近年のグローバリズム志向がコロナ禍をエスカレートさせたことはいうまでもない。日本も新型肺炎(SARS)のときのように、ひと昔前なら感染症を水際で止められたのだ。そんななか、江戸時代の鎖国期みたいな雰囲気をうまく残している岩手が一定の成果をあげてきたことは注目されていい。
もちろん、岩手にもコロナ禍によるギクシャクした空気はあり、経済的な損失に苦しむ人もいる。ただ、それが激しい軋轢につながりにくいところが岩手らしさだったりする。津波てんでんこが象徴するように、対応は人それぞれというか、災厄だから仕方ないと諦め、意見の合わない人とは距離を置くことで済まそうとしがちなのだ。
ちなみに筆者は、マスクが苦手で、会話するとき以外はしないことにしている。そのかわり、外出中は口を開かないようにしているが、とりあえず、誰かと険悪になったことはない。これは低い人口密度のおかげでもあるだろう。ソーシャルディスタンスが自然と成立する土地なのだ。その物理的な距離感もあいまって、つきあいたくない人とはつきあわないこともわりと可能だったりする。これは都会のわりにムラ社会的な密着度が強い名古屋あたりとは違うところだ。
まぁ、それだけ、岩手が本物の田舎だということだろう。そういえば、コロナゼロ県がどんどん減っていった頃は中止になった春の高校野球の時期と重なっていて、岩手は「田舎センバツ」優勝などと言われた。実際、最後まで争った鳥取や島根も本物の田舎だ。と同時に、因幡の白兎や八岐大蛇といった神話も持っている。自然を畏れ、穢れを避けようとする県民性も似ているのではないか。
そういう意味では世界のなかでガラパゴスにたとえられる日本も、グローバリズムとはちょっと相いれない田舎だろう。だからこそ、逃げる避けるの方針で、コロナ封じ込みに今のところ成功しているわけだ。つまり、ピリピリ感もビクビク感も、反グローバリズムも、じつは日本全体に共通するもの。その強みを最大に発揮してきたのが岩手だということにすぎないのかもしれない。
岩手県民、そして日本人として、この強みがウィズコロナの時代に有効であり続けることを期待したいものだ。
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