2020年8月9日日曜日

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黒焦げの塊は母、触れるとポロポロ崩れ落ちた…今も喪失感残る被爆者

爆心地一帯(1945年秋、H・J・ピーターソン氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)爆心地一帯(1945年秋、H・J・ピーターソン氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

 75年前の8月9日午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500メートルで原子爆弾はさく裂した。直下の街は跡形もなく消え去り、人々は一瞬で命を奪われた。生き延びた家族は、大切な人の亡骸なきがらを抱くこともできず、今も喪失感を埋められずにいる。(遠藤信葉)

長崎 一瞬で街消え

「母の姿を思い出すと涙が止まらない」と話す犬塚静子さん(7月23日、名古屋市で)「母の姿を思い出すと涙が止まらない」と話す犬塚静子さん(7月23日、名古屋市で)

 名古屋市の犬塚静子さん(92)は、爆心地から200メートルほどの自宅で母と姉、妹、2人の弟と6人暮らしだった。「空襲があったらこれを真っ先に防空ごうに入れてね」。あの日、知人から上海みやげにもらったお気に入りの革靴を指して軽口をたたくと、母は笑って送り出してくれた。

 勤め先は約3キロ南の県庁。閃光せんこうを受け、机の下に伏せた。夕方、陸軍病院に勤務する姉と病院の防空壕に身を寄せた。2日後に自宅に向かうと、辺り一面何もなかった。

 勝手口があった場所には、黒焦げの塊があった。母だった。触れるとぽろぽろと崩れ落ちた。そばに転がっていたカボチャをたたくと、鮮やかな黄色が現れた。「カボチャですらそれと分かるのに、母のかけらは何もない」。涙も出なかった。城山国民学校に通っていた弟2人の行方は分からず、学徒動員先の工場にいた妹も戻ってこなかった。

 夏になると、変わり果てた母の姿を思い出し、胸が苦しくなる。でも、夢に見るのは小柄でふくよかな笑顔の母ばかり。「一瞬で命が消え、苦しまずに逝けたのかもしれない」。最近そう思うようになった。

 結婚後、移り住んだ名古屋の菓子店で、母がよく作ってくれたのにそっくりな草餅を見つけ、街に出るたびに買い求めてしまう。「原爆がなければ、もっと母の草餅を食べられたのに」。75年たっても母が恋しい。

500メートル圏 居住の9割即死

 長崎原爆戦災誌によると、爆心直下の松山町には食品、衣料、雑貨などの店舗が連なり、戦時下でにぎわいはさらに増していた。

 原爆で爆心地付近は3000~4000度の熱線と秒速440メートルの爆風にさらされ、500メートル圏内の民家は粉砕された。長崎市が1970~79年度に実施した原爆被災復元調査事業の報告書によると、被爆当時、500メートル圏内に3828人が居住。92・55%に当たる3543人が即死し、75年9月時点の生存者は0・26%の10人とされた。

佐々木光三さん佐々木光三さん 名古屋市の佐々木光三さん(89)は、松山町で新婚生活を送っていた10歳ほど年上の姉を亡くした。

 普段は動員学徒として爆心地から800メートルの工場で働いていたが、その日は寝坊し、4・5キロ離れた自宅にいた。翌日、灰色になった長崎の街を歩いた。爆心地に近づくにつれ、20メートルおきだった遺体の山が、10メートル、5メートルおきに現れた。路面電車の松山町の停留所近くで、赤ん坊を背負ったままの女性が黒焦げになっていた。

 姉を捜しに行った義兄は、自宅があった場所に転がっていた遺体の薬指に光る指輪で、かろうじて姉だと判断できた。

 戦後、軍事産業に従事したこともあり、周囲の目を気にしてあの日のことは封印してきた。被爆者であることも公言してこなかったが、「来年は90歳。生き証人として語り残すのも私の役目かもしれない」と思い始めた。

 今も原爆への怒りは消えない。「戦争は善人を悪魔に変え、人を死滅させる原爆を落とすこともいとわなくなる」。家族を奪われた被爆者として伝えたい

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