黒焦げの塊は母、触れるとポロポロ崩れ落ちた…今も喪失感残る被爆者
75年前の8月9日午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500メートルで原子爆弾はさく裂した。直下の街は跡形もなく消え去り、人々は一瞬で命を奪われた。生き延びた家族は、大切な人の
長崎 一瞬で街消え
名古屋市の犬塚静子さん(92)は、爆心地から200メートルほどの自宅で母と姉、妹、2人の弟と6人暮らしだった。「空襲があったらこれを真っ先に防空
勤め先は約3キロ南の県庁。
勝手口があった場所には、黒焦げの塊があった。母だった。触れるとぽろぽろと崩れ落ちた。そばに転がっていたカボチャをたたくと、鮮やかな黄色が現れた。「カボチャですらそれと分かるのに、母のかけらは何もない」。涙も出なかった。城山国民学校に通っていた弟2人の行方は分からず、学徒動員先の工場にいた妹も戻ってこなかった。
夏になると、変わり果てた母の姿を思い出し、胸が苦しくなる。でも、夢に見るのは小柄でふくよかな笑顔の母ばかり。「一瞬で命が消え、苦しまずに逝けたのかもしれない」。最近そう思うようになった。
結婚後、移り住んだ名古屋の菓子店で、母がよく作ってくれたのにそっくりな草餅を見つけ、街に出るたびに買い求めてしまう。「原爆がなければ、もっと母の草餅を食べられたのに」。75年たっても母が恋しい。
500メートル圏 居住の9割即死
長崎原爆戦災誌によると、爆心直下の松山町には食品、衣料、雑貨などの店舗が連なり、戦時下でにぎわいはさらに増していた。
原爆で爆心地付近は3000~4000度の熱線と秒速440メートルの爆風にさらされ、500メートル圏内の民家は粉砕された。長崎市が1970~79年度に実施した原爆被災復元調査事業の報告書によると、被爆当時、500メートル圏内に3828人が居住。92・55%に当たる3543人が即死し、75年9月時点の生存者は0・26%の10人とされた。
普段は動員学徒として爆心地から800メートルの工場で働いていたが、その日は寝坊し、4・5キロ離れた自宅にいた。翌日、灰色になった長崎の街を歩いた。爆心地に近づくにつれ、20メートルおきだった遺体の山が、10メートル、5メートルおきに現れた。路面電車の松山町の停留所近くで、赤ん坊を背負ったままの女性が黒焦げになっていた。
姉を捜しに行った義兄は、自宅があった場所に転がっていた遺体の薬指に光る指輪で、かろうじて姉だと判断できた。
戦後、軍事産業に従事したこともあり、周囲の目を気にしてあの日のことは封印してきた。被爆者であることも公言してこなかったが、「来年は90歳。生き証人として語り残すのも私の役目かもしれない」と思い始めた。
今も原爆への怒りは消えない。「戦争は善人を悪魔に変え、人を死滅させる原爆を落とすこともいとわなくなる」。家族を奪われた被爆者として伝えたい
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