2020年8月1日土曜日

7月30日、97歳で死去した台湾の李登輝元総統(写真は2007年6月、東京都内で撮影、ロイター/Yuriko Nakao)© 東洋経済オンライン 7月30日、97歳で死去した台湾の李登輝元総統(写真は2007年6月、東京都内で撮影、ロイター/Yuriko Nakao)  「台湾民主化の父」、「ミスターデモクラシー」――。植民統治、独裁体制を生き抜き民主化を主導した激動の東アジアを代表する政治家だった。
 台湾の元総統、李登輝氏が7月30日に台北市内の病院で死去した。97歳だった。独裁体制下にあった台湾の民主化と経済発展に尽力。1996年に行われた台湾住民による総統直接選挙で勝利し、初の民選総統に就任した。「22歳まで日本人だった」と語るなど日本国内では李登輝氏を親日家として高く評価する向きもあり、日本の政財界などと深い親交があった。
死去を受けて、台湾のみならず世界から多くのメッセージが出された。蔡英文総統は総統府の声明として「台湾の民主化における貢献はかけがえのないもので、死去は国家にとって大きな損失」だと発表した。日本でも安倍晋三首相のほか立憲民主党の枝野幸男代表、小池百合子・東京都知事など与野党問わず多くの追悼のメッセージが出された。

「台湾人に生まれた悲哀」を歩む

李登輝氏は総統在任中に作家、司馬遼太郎氏との対談の中で「台湾人に生まれた悲哀」という言葉を口にしていた。オランダ、鄭成功、清朝、日本の植民統治、大陸から移った中国国民党(以下、国民党)が独裁する中華民国政府――。台湾の歴史は外来政権に支配され続けてきた。李登輝氏自身も外来政権の統治下を生き抜いており、その生き様から出た想いともいえる。
 李登輝氏は日本の植民統治下だった1923年、台湾台北近郊で生まれた。「国語」として日本語教育を受け、皇民化政策の一環だった改正名運動で岩里政男と日本名を名乗った。旧制台北高等学校を卒業後、京都帝国大学(現・京都大)農学部に進学。その後、旧日本陸軍に入隊したが、敗戦を迎えて台湾に戻り、1946年に台湾大学に編入学した。
 戦後、日本の植民統治が終わり、台湾は当時中国大陸を統治していた中華民国に接収された。戦前から台湾に居住していた人々である「本省人」は祖国への復帰だと接収を当初歓迎した。しかし、大陸から派遣された官吏の統治能力欠如による社会混乱や「本省人」を新たな国語(標準中国語)を話せないとして政治参加から遠ざけるなどの差別待遇に台湾にいた人々は直面する。
 1947年2月には本省人と大陸からの移住者である「外省人」との間で大規模な衝突が勃発。事態を収拾するためだとして国民党政府は台湾に軍事部隊を派遣し、多数の「本省人」が虐殺される「二・二八事件」が起きた。李登輝氏の知人もこの事件に巻き込まれ、命を落とした。
 その2年後の1949年、大陸で中国共産党との内戦に敗れた蔣介石総統が率いる国民党は台湾に撤退。台湾で独裁体制を整え、中華民国を存続させる。大陸との内戦継続を理由に1987年まで続く世界でも例をみない長期の戒厳令体制が敷かれ、「白色テロ」と呼ばれる台湾独立などを主張する反体制派に対する政治弾圧が行われた。李登輝氏は同年に台湾大を卒業後、大学教員や農業技師を務めたが、過去に共産党関係の勉強会に参加したとして当局の監視下に置かれたこともあり、不安な日々を過ごした。「われわれの世代は夜にろくに寝たことがなかった。子孫をそういう目に遭わせたくない」と李登輝氏は当時を振り返っている。

台湾住民が自らトップを選ぶ民主化を主導

1968年、李登輝氏はアメリカのコーネル大学で農業経済学の博士号を取得。帰国後は農業経済学の専門家として台湾大教授などを務め、専門家としてキャリアを積んだ。転機となったのは1971年、蔣介石総統(当時)の息子である蔣経国氏に見出され、国民党に入党。72年に蔣経国氏が行政院長(首相)に就任した際には当時の最年少閣僚(49歳)として入閣した。
 1970年代は台湾にとって1971年の国際連合脱退(実質追放)や1972年のアメリカのニクソン大統領の訪中、日中国交正常化にともなう日本との断交など外交危機を迎え、海外からの支持を失いつつあった。実質外来政権として台湾を統治していた国民党政権は自らの正統性を台湾内で担保するため、人口の8割以上を占める本省人を登用する「台湾化」の方針をとった。李登輝氏はそのなかの1人として選ばれた
 台北市長や台湾省政府主席などの要職を経て、1984年に蔣経国総統のもとで副総統に就任。そして1988年蔣経国総統の急死に伴い、総統の地位を襲った。初の「本省人」総統だ。しかし、総統に就いたものの李登輝氏は国民党内に支持基盤がなく、周囲には「外省人」の古参幹部がひしめくなど、「丸腰」の状況での最高権力者への就任だった。
 1990年、李登輝氏の総統としての任期が切れる際には国民党内で後継者をめぐり、激しい政争が勃発。キリスト教徒である李登輝氏はその渦中で、聖書を開き「どうすべきか」と神に問いかけたと自身の著書で回想する。そこで示されたのは「イザヤ書」第37章35節、「わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救おう」で、それを受け「どんなに大変でも、台湾のために、次の世代のためにやろう」と決めたという。
 その後、国民党内の分裂状態や急進改革を主張する当時野党の民主進歩党(民進党)と学生運動などの世論の影響力を利用し、政争に勝利。新たに1996年までの総統任期を確保したのち、民主化をはじめとする政治改革を求める民意を背景に、国民党内外での調整や交渉に手腕を発揮した。中国から台湾に移って以降、居座り続ける国会の「万年議員」や政敵を引退や失脚に追い込み、中国大陸を統治する前提で作られていた当時の憲法や政治制度を実際に統治している台湾とその周辺島嶼に合わせる各種改革を主導した。その仕上げのひとつが1996年に行われた初の総統直接選挙だ。台湾の近現代史で初めて台湾住民が自分たちのリーダーを選ぶ権利が認められた瞬間だった。

自分たちのリーダーがいるという実感を意識づけた

初の直接選挙を含め、李登輝総統の存在は多くの台湾住民に強烈な印象を与えた。外省人とは異なる台湾訛りの中国語を話し、演説では独裁体制下で使用を禁じられていた台湾語(台湾などで使用される中国語)が堂々と使われた。自分たちのリーダーがいるという実感、そして投票でリーダーを選んでいる実感は多くの台湾住民に自分たちは台湾という共同体で生きていることを意識づけた。
 一方で、中台関係が悪化した時期でもあった。中国は李登輝氏が主導した一連の政治改革や直接選挙の実施が台湾独立につながると反発。台湾の周辺海域にミサイルを発射するなど威嚇した。アメリカ軍が空母2隻を台湾近海に派遣するなど緊張が高まったが、台湾ではむしろ毅然と対応する李登輝氏へ支持が集中する結果となり、李氏が初の民選総統に就任した。
 1997年に従来中国史が中心だった歴史教育を台湾史重視に変えたほか、中国の一地方政府として存在していた台湾省の凍結を決定。1999年には中台関係を「特殊な国と国の関係」であると提起するなど、台湾アイデンティティーが高まる方向に李総統の政策は進んだ。2000年の総統選挙では後継者として国民党から連戦氏を出馬させたが、民進党の陳水扁氏に敗れ、李総統は国民党主席を辞任した。初の政権交代が行われ、結果的には台湾の民主主義の一段の定着につながった。
 退任後はより台湾意識を強調する志向を強め、台湾独立志向の政党「台湾団結連盟」の創設や活動にかかわったことなどから国民党籍を剥奪された。2008~2016年の対中融和政策をとった国民党の馬英九政権に批判的だったのに対し、2012年以降は民進党の蔡英文氏を支持した。総統在任中に選挙のために不正な資金流用や反社会勢力と関わりをもったことなどが疑われて批判の声もあるが、外来政権に支配されてきた「台湾人に生まれた悲哀」を繰り返さないためにという信念を持ち続け、そのための基盤ともいえる民主主義と台湾アイデンティティーの強化を求め続けた政治家だった。

民主主義は完全に定着した

2020年までに台湾では7回の総統選挙が行われ、3回の政権交代がスムーズに実施された。民主主義は完全に定着したといえる。多くの台湾の人々は、自分たちは台湾という共同体の一員だという台湾アイデンティティーをもち、4年に1回行われる総統選挙で投票し、共同体の一員という自覚と自信を深め続けている。
 李登輝政権誕生後に生まれた筆者のような20代を中心とした若者世代は「天然独(生まれつきの独立派)」とも呼ばれ、台湾がひとつの国家であることが自然のように考える世代も出て来た。今後、経済発展や軍事力増強を背景に中国の台湾に対する統一攻勢は強まるかもしれない。ただ李登輝氏が思い描いていた将来の方向性は台湾で着実に引き継がれている。

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