大柿地区は球磨川と山に囲まれたのどかな田園地帯。日中でも球磨川のせせらぎが聞こえ、この時期は夕方になるとヒグラシの鳴き声が響いた。虫がたくさん捕れ、子供たちも気に入っていた。
そんな光景は一変した。4日朝、夜勤明けだった尾方さんは職場にいた。増える雨量に家族が心配で、仮眠も取らず情報を集めた。上流の市房ダムが緊急放水の予定と聞いて午前7時過ぎに妻に避難するように連絡。緊急放水は見合わせとなったが、約2時間後に自宅は濁流にのまれた。午後4時ごろ、避難先の施設で家族と再会できたときは涙が止まらなかった。
大柿地区では犠牲者は出なかったが、爪痕は大きかった。会社勤めの傍ら、父を手伝って米やショウガ、トマトなどを作っていた1・5ヘクタールの田畑は全滅。自宅に隣接する畑には近くの建設会社の倉庫が建物ごと流れてきて、家5軒分の木材が山を作っていた。
「前は『こんな田舎』と思っていました」と尾方さんは打ち明ける。仕事の関係で20代を大阪で過ごし、家を継ぐために30代前半で人吉に戻ったが、趣味のスポーツ観戦もままならず、市内には映画館もない。「ずっと大阪に戻ることばかり考えていました」
だが変わり果てたふるさとを見て「何もないのがよかった」と思うようになった。「家族と過ごす平穏な日々がどんなに幸せなことか。こんなことになって、ああここが好きだったんだと気づかされました」
日常は戻ってくるのか。「もうここに住むことは考えられん」。氾濫から10日たってもなお、ふくらはぎまで泥がたまる農機具小屋で父の和敏さん(72)は肩を落とした。戦後最大とされた「昭和40年7月洪水」(1965年)も経験したが、自宅にはくるぶしの高さまでしか水が来なかった。先祖代々受け継いできた土地は和敏さんで16代目となるが、それでも「それよりも命が大事」と断言する。家は取り壊し、農機具小屋だけを残すつもりだ。
一方、尾方さんの心は揺れる。「できれば僕はここに住み続けたい。けど、またいつ水害が起こるかわからない」。今は近くの別の地区にアパートを借りて家族で移り、そこから片付けに通っている。「離れるにしても、原付きバイクで来られるくらいの距離がいい。もう人吉から離れるつもりはないです」。泥がかき出されて少しずつ広くなっていく敷地を見ながら、「ここ」への思いを強くしている。【徳野仁子】
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