吉川さんは爆心地から1・2キロの天満町(現・広島市西区)の自宅で被爆。庭にいたが、爆風などが家屋に遮られて幸い軽傷で済んだ。
一方、姉の二二さん(当時18歳)は、原爆投下の目標点だった相生橋を走っていた路面電車内で被爆した。全身に大やけどを負いながらも、母らが疎開していた、今の広島市北部の親戚宅にたどり着いたが、治療のかいなく3日後の9日朝、息を引き取った。
兄の恒さん(同12歳)は市中心部に学徒動員され、そのまま行方不明になった。父が捜し回り、陸軍病院で亡くなったと耳にした。父は盆過ぎに遺骨を持ち帰ったが、本当に兄のものかどうかはわからないままだ。
「姉も兄も生きていたらどんな人生を送っていたかと思うと、かわいそうでならない」。75年がたった今も、夭逝した2人を思うと言葉が出ない。
最近、体験を書き残さねばとの思いを強くしているという吉川さん。慰霊碑前で「犠牲者が安らかに眠れるよう、愚かな戦争を繰り返してはならない」と決意を新たにしていた
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