© NIKKEI STYLE 曇りの日の川越市(画・安住孝史氏) 夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(82)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「たまたま乗せた客が顔見知り その時タクシー運転手は」)
新型コロナウイルスのことで心が休まらない日が続いていますが、2020年も半年過ぎました。コロナ禍が少しでも早く去って元の平穏な日々を取り戻したいものです。
ウイルス感染を避けるため、電車の代わりに自転車で通勤したり、場合によってはタクシーを使ったりする方もいるようです。これらはタクシー乗車の理由がはっきりしていますが、運転手をしていると、乗車の理由が変わっていたり、想像がつかなかったりするケースに出くわすことがあります。私も不思議な経験をしました。
■日比谷交差点で「帝国ホテルへ」
皇居の東側を南北に走る日比谷通りを走っていると、ちょうど日比谷交差点のところで男性に呼びとめられました。行き先は「帝国ホテル」です。「えっ」と私が驚いたのは、帝国ホテルはその交差点からまっすぐ歩いて5分とかからない距離だからです。東京に不慣れなお客様かと思い、念のため「すぐそばですが」と聞きますと、それはご存じとのこと。そして、乗るとすぐに初乗り料金を渡してくれました。
帝国ホテルの玄関に寄せますと、礼儀正しいドアマンのお迎えです。お客様は軽く会釈して入っていきました。ドアマンの前で料金のやりとりも見せていませんので、遠くから帰ってきたようにみせたい事情があったのかなとも思いましたが、ただ見栄(みえ)をはっただけかもしれません。このようなタクシーの使い方もあるのかと、変に感心したのを覚えています。
目と鼻の先の距離なのにタクシーを使われたお客様はほかにもいます。JR御徒町駅のガード近くで男性が「すぐそこを曲がって昭和通りに入って」と乗ってこられました。昭和通りまで100メートルくらいだったでしょうか。びっくりしたのは、曲がるとすぐに「ここでいいよ」と車を止め、急に慌てたような様子になって降りていかれたことです。後から考えると、急いで駆けつけたようにみせる演出だったような気もしました。
こんなこともありました。東京・銀座で夜のお店の仕事がハネる時間帯のことです。他の車両と並んでお客様を待っていると、僕の順番でアベックが近づいてきました。2人で乗るのかなと思いましたが、男性は見送りで、どうもお店の女性と常連客の関係のようです。
男性は「運転手さん、中野まで送ってあげて。おつりはこの女性に渡してくれればいいから」と1万円札を僕に差し出しました。それで「はい」と返事をして走り出しますと、女性が「有楽町駅で止めて」と言います。有楽町駅まではワンメーターです。1万円近いおつりを手に電車で帰宅すればお得と考えてのことでしょう。銀座ではたまにあることで、運転手もすぐに元の場所に戻れますから、損は感じません。僕は「気をつけて」と声をかけ、後ろ姿を見送りました。
近いと思ったら遠かった、という思い出もあります。やはり夜の銀座で乗ってきた男性のお客様ですが、行く先は「霞ケ関」。僕が官庁街に向かって走り出すと「高速に入って」との指示です。「おや」と僕が戸惑っているのをみて、男性はいたずらっぽく「川越だよ」とおっしゃしました。
© NIKKEI STYLE 川越市の「時の鐘」(画・安住孝史氏) 聞くと東武東上線の川越駅(埼玉県川越市)から少し先にも「霞ケ関」があるとのこと。僕はそれまで知らずにいたので勉強になりました。お客様は運転手の驚く様子を見たくて、いつも最初に霞ケ関と言っているようでした。
まったく理由がわからなかったのは、着け待ちしていたJR西日暮里駅から「東十条」と言って乗ってきた中年男性の場合です。「東十条のどの辺ですか」と尋ねると「駅」とのこと。京浜東北線なら西日暮里から東十条まで乗り換えなしで10分くらいです。タクシーを走らせますと、本当に東十条の駅前で「ここでいい」と降りていかれました。電車の方がはるかに安く、しかも速いのになぜだろうと、これは今も謎のままです。
タクシーというと、時間を節約してラクに移動するための手段ということがまず思い浮かぶと思います。それと全く矛盾する使い方もあるのですから、面白いですね。
■父の日の寄り道
タクシーは寄り道しながら目的地に向かう乗り物としては実に便利です。利用法としてはありきたりですが、ちょっと忘れられない寄り道のことを思い出しました。
6月の第3日曜は「父の日」です。20年近く昔のことですが、この日に根津と千駄木の間あたりの不忍通りで「観音裏まで」と若い女性が乗ってきました。観音裏は「雷門」で知られる浅草寺の北側エリアです。走り出してしばらくすると「途中に洋菓子店があるので、そこで少し止まっていてください」とのこと。父の日なので父親にケーキを贈りたいということでした。
なんだか僕もうれしい気持ちになって、お店の前で車を止めました。ほどなくして女性は「お待ちどおさま」と戻ってきました。そして「はい」と言って、僕に小さな箱を差し出します。ケーキの入った箱だと直感しました。びっくりして「いいのですか」と聞きますと「どうぞ」と笑顔です。お父様のためのケーキのほかに、僕にまで用意してくれたのです。
感謝してお客様を降ろしますと、いつも浅草の休憩場所にしている隅田川沿いの通りに向かいました。早く箱を開けたかったからです。途中で缶コーヒーも買いました。箱にはチョコレートケーキが入っていましたが、その美味(おい)しさは、ちょっと涙が出るくらいでした。
人生は悲しいこと、苦しいことが全体の6割、あるいはもっと多いかもしれないと思っていますが、それでも、時として素晴らしいことに出逢(あ)うことがあります。ほんの小さな出来事だとしても、その一粒の恵みが、人生を明るく、愛(いと)おしいものにしてくれる。そんなふうに感じています。
安住孝史
© NIKKEI STYLE 1937年(昭和12年)東京生まれ。画家を志し、大学の建築科を中退。70年に初個展。消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続ける。タクシー運転手は通算20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。児童を含めた芸術活動を支援する悠美会国際美術展(東京・中央)の理事も務める。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。
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