2020年8月21日金曜日

長い低迷から復活した阪神の秋山拓巳 (c)朝日新聞社© AERA dot. 提供 長い低迷から復活した阪神の秋山拓巳 (c)朝日新聞社  プロ11年目の堂林翔太(広島)が打率3割8厘、10本塁打、27打点(8月20日時点)と好調だ。
 1軍デビューをはたした2012年、144試合にフル出場し、14本塁打を記録。14年まで3年連続オールスターに出場し、“プリンス”と呼ばれた。だが、15年以降は打撃不振などからライバルにポジションを奪われ、出場機会も激減。昨季は過去最少の28試合出場にとどまり、戦力外やトレードの噂も飛び交った。そんな選手生活の崖っぷちから見事復活をはたし、再ブレイクしたのは、不思議な成長曲線としか言いようがない。
 実は、過去にも堂林のように若くして活躍した直後に伸び悩み、長いトンネルを経て、鮮やかな復活劇を遂げた例がいくつかある。
 堂林と同じ11年目の秋山拓巳(阪神)もその一人だ。高卒1年目の10年8月に初登板初先発で1軍デビューすると、2戦目でプロ初勝利。その後も9月12日のヤクルト戦で初完封を記録するなど、先発ローテを守り、4勝3敗、防御率3.35の成績を残した。阪神の高卒投手が1年目に2勝以上を挙げたのは、江夏豊、遠山昭治に次いで球団史上3人目。右腕では初の快挙だった。
 だが、皮肉にも初年度の活躍が、成長曲線を歪めてしまう。秋山は当初2軍でじっくり育てる方針だったが、チームが中日、巨人と三つ巴のV争いを繰り広げるなか、駒不足に陥った先発陣の“救世主”としてフル回転したリバウンドから、2年目は0勝1敗に終わる。
 さらに12年から16年まで5年間でわずか2勝と低迷。2軍では好投するのに、1軍に上がると打ち込まれる悪循環が続く。16年オフには、入団当初からつけていた背番号が「27」から「46」に変更された。
 すでに「結果も出ていなかったし、(背番号が)変わるかもしれん」と覚悟していた秋山は、46番を「キンブレルの番号だから」と前向きにとらえ、「何かがいきなり変わることもない。いい状態を続けていくだけ」と出直しを誓った。
 そんな努力が実を結び、翌17年は開幕から先発ローテ入り。制球力の良さを生かして、チープトップの12勝と一躍エースに成長した。
 一昨年、昨年は右膝手術の影響などから成績ダウンも、今季は7試合に先発して4勝(8月20日現在)とエース復活を目指している。
 今年で38歳の亀井善行(巨人)も、20代後半にブレイクしたあと、相次ぐ故障や巨大戦力の中での熾烈なサバイバル戦を乗り越えて、9年後に再び規定打席到達という稀有な成長曲線を描いている。
 入団5年目の09年、実績不足ながら、守備力を買われ、第2回WBCの日本代表メンバーに選ばれた亀井は、このラッキーチャンスを踏み台に急成長。同年は打率2割9分、サヨナラ弾3発を含む25本塁打、71打点の活躍で、5番打者として7年ぶりの日本一に貢献した。
 だが、翌10年は打撃不振に故障も追い打ちをかけ、2軍落ちを3度経験。1割8分5厘、5本塁打、17打点に終わり、ルーキー・長野久義にポジションを奪われてしまう。
 内野にコンバートされた11年も、12球団一の巨大戦力の中でファースト、サード、外野と一定せず、打順もめまぐるしく変わるなど、持ち味を発揮しきれなかった。12年も出場60試合にとどまった。あまりにもケガが多いため、翌13年から登録名を「義行」から「善行」に変えた。
 以来、“改名効果”で出番も増え、15年には、巨人の84代4番打者として17試合に出場。18年は球団史上最長ブランクとなる9年ぶりの二桁本塁打・13本を記録し、09年以来の規定打席にも到達した。
 そして、昨季も規定打席に達し、2割8分4厘、13本塁打、55打点で5年ぶりのリーグ優勝に貢献。さらに今年7月9日の阪神戦で、史上305人目の通算1000本安打を達成。37歳11カ月での快挙は、もちろん球団史上最年長だ。
 競争相手に惑わされることなく、黙々とゴールを目指す。まさに「ウサギと亀」の亀のような野球人生だ。
 80年代から90年代にかけてヤクルトの左腕として活躍した加藤博人も、山あり谷ありの野球人生だった。
 八千代松陰高時代は3番手の控え投手だったが、現役時代に変則左腕でならしたヤクルト・安田猛スカウトの目に留まり、テストを経てドラフト外入団。89年春、打撃投手として参加したユマキャンプで、池山隆寛、広沢克己らの主力をきりきり舞いさせた快投が認められ、19歳で1軍入り。内藤尚行、尾花高夫に次ぐ先発3番手として、落差の大きいカーブを武器に6勝9敗1セーブ、リーグ8位の防御率2.83と一気にブレイクした。
 だが、投げるボールのほとんどがカーブとあって、相手チームに研究された2年目以降は、勝ち星が伸びず、92年に14試合に登板したのを最後に2年間、1軍登板がなかった。
 そんな苦難の日々を経て、95年に最速150キロを記録するなど、リリーフとして40試合に登板。カーブに切れ味が戻った97年にも、自己最多の60試合に登板し、5勝1敗6セーブ、防御率1.99で、リーグ優勝の大きな力に。野村克也監督も「加藤は殊勲甲や。あいつがおらんかったと思うとゾッとするわ」と最大の賛辞を贈っている。
 西武との日本シリーズでも、1勝1敗で迎えた第3戦で、同点の5回からリリーフし、2回を無失点に抑えて勝利を呼び込むなど、“野村ヤクルト”最後の日本一に貢献した。
 高卒1年目から3年連続二桁勝利を記録しながら、この数年、期待を裏切りつづけている藤浪晋太郎(阪神)も、今季は復調気配を見せているだけに、近い将来、再ブレイクする可能性も十分ありそうだ。(文・久保田龍雄)
●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」(野球文明叢書)。

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