もしそこがいつものように多くのファンで埋まっていたなら、開幕日のナイトセッションに登場した大坂なおみはどれほど熱狂的に迎え入れられたことだろうか。
2年前、この場所で初めてグランドスラムのトロフィーを掲げた20歳のチャンピオンは、そのパワフルなプレーとユニークなキャラクターで一躍世界中の人気者となった。それから5カ月の間に2つ目のメジャータイトルを獲得し、女王の座に君臨。史上もっとも稼ぐ女子アスリートにもなった。
自分の性格を「シャイ」だといつも言っていた女の子は、今や絶大な発言力を持って自身が信じる正義を世界に訴える稀有な若きスターアスリートだ。
特にこの1週間、大坂が世界に向けて議論のきっかけを投げかけた行動は、少なくとも黒人のプロテニスプレーヤーのパイオニアであるアーサー・アッシュの名を冠したこのスタジアムでは、圧倒的な支持で迎えられたに違いない。その光景を見ることはできなかったが、大坂は目に見えないサポートをしっかりとその背に受け止めているかのように、力強く堂々と、再び頂点への一歩を踏み出した。
ダブルスを組んだこともある土居戦。
左太股の負傷により、ウエスタン・アンド・サザン・オープンの決勝戦を棄権してから2日目の夜。危ぶまれていた欠場が回避されて安堵したものの、いきなりの日本人対決となったのは日本のファンには残念なことだった。土居美咲は最新の世界ランク81位の29歳で、大坂にとっては今年の2月のフェドカップをともに戦ったチームメートでもあり、2016年にダブルスを組んだこともある。
159cmと小柄ながら、左利き特有のトップスピンを武器としたアグレッシブな展開が持ち味だ。トップ10からの勝利こそ数少ないが、アナ・イバノビッチやアンジェリック・ケルバーといった元女王たち相手に幾度となく善戦した姿が印象深い。
太股のケガと数々のプレッシャー。
この危険な対戦者以外にも、大坂は見えない敵を抱えていると思われた。1つは太股のケガ。そして数々のプレッシャーである。大会の初戦、特に誰もが照準を合わせているグランドスラムの初戦は、トップ選手にとって「勝って当然」な分だけ重圧が大きい。
相手が同国の選手となればなおさら平常のメンタルで戦うことが難しい。それに加え、テニスの外で高まっている大坂への注目の高さがどう影響するか。マイナスに作用することも十分にありえた。
試合は、「自分は完全なチャレンジャーなので向かっていくだけ。すごくわくわくしている」と話していた土居の危なげないサービスキープでスタートした。しかし大坂は第3ゲームと第7ゲームと2度ブレークに成功して、第1セットを6-2で先取。しかし第2セットは第2ゲームでブレークを許して2-5までリードを許す。
「相手がレベルを上げてきたことを感じたときはちょっと難しい。負けて失うものはないと思って向かってくる場合もある。第2セットはそんな感じだった」
あとでそう振り返った大坂は、第9ゲームでブレークバックして5-5に追いついたものの、第11ゲームのリターンでは3度のブレークポイントを逃し、続くサービスゲームでは40-15からブレークを許して5-7でセットを奪われた。
最終セットは第1ゲームで2度のダブルフォルトをおかした土居の隙を突いて、40-15から4ポイント連取でブレークに成功。第2ゲームで2度のブレークポイントをしのいでキープすると、その後は危なげなく、3-2から3ゲーム連取で試合を締めくくった。
「私のことが嫌いだと言われても」
破壊力は言うまでもないが、印象的だったのはウエスタン・アンド・サザン・オープンでもそうだったように、どんな局面でも冷静で集中していることだ。メンタルの状態について大坂自身はこう話した。「私が(人種差別に抗議する)声を上げるようになってから、ストレスがさらに大きくなったんじゃないかって多くの人たちに聞かれるけど、正直なところ、そんなことはないわ。私のことが嫌いだと言われても、それはしょうがない。私はプライドをかけてここにいるつもり」
かつてない角度から逞しくなる心。
数日前、自分の起こした行動に対する反響に怯えていたと告白した大坂は、実際に激励や支持ではない否定的な意見も見聞きしたに違いない。それでも自分の信念を貫いている。彼女のメンタルは今、かつてない角度からのアプローチによってより逞しくなっているかのように見える。
スタジアムに着用して来た黒いマスクには、白い文字で「Breonna Taylor」と書かれていた。3月に自宅で警官に射殺された黒人女性の名だ。
「彼女に起こった出来事を知らない人たちも世界にはたくさんいると思う。テニスは世界中の人が見るから、私がこれをつけることで多くの人に知ってもらい、関心を持ってもらいたいと思った」
脚の状態は「少し悪化した」が。
決勝まで勝ち進めば7試合。だから7枚のマスクを用意しているのだとオンコート・インタビューで明かし、「悲しいことに7枚では足りないけれど、決勝までいって全て見せる」と誓った。女子はトップ10のうち6人も欠場し、観客もいない会場では、テンションを上げるのも、明確なモチベーションを抱いてそれを維持するのも難しい。しかし、大坂は勝ち進まねばならない大きな使命を自分に与えている。
脚の状態は期待したほど回復しておらず、しかも2時間3分の試合で「少し悪化した」にもかかわらず。その使命感こそがエネルギーなのかもしれない。テニスを舞台に大坂が貫く行動の意味を、私たちはこの後どのようなかたちで知ることになるのだろうか。
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