2020年8月20日木曜日

※写真はイメージです© PRESIDENT Online ※写真はイメージです 1973年、ペナントレース終盤の阪神・巨人戦で、ひとりの外野手がセンターフライを落球した。以降、阪神は巨人に負け続け、優勝がかかったシーズン最終戦の直接対決でも敗北。巨人はV9を達成した。落球した選手は「戦犯」と呼ばれて非難され続け、その後球界を離れる。思いつめた彼の心を救ったのは、同じエラーをしたあるメジャーリーガーだった——。
※本稿は、澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

センターフライをとれず、巨人に痛恨の逆転負け

昭和48(1973)年8月5日、甲子園球場では阪神タイガース対読売ジャイアンツ(巨人)3連戦の3戦目が行われていた。
これまで8年連続日本一を続けてきた巨人だが、長嶋茂雄をはじめ主力選手の高齢化の影響もあって、この年は8月になっても4位と低迷していた。
一方このとき2位の阪神は、3連戦の初戦、2戦目に連勝。この日も阪神は優勢で、8回を終わって2対1とリードしていた。マウンドには必勝を期して3回途中からエース江夏豊が上がっている。9回表2死1、3塁、勝利まであと1アウトである。
バッターボックスには巨人の7番黒江透修。江夏の4球目をとらえた当たりは、ハーフライナーでセンターの正面に。これで試合終了かと思ったとき、“事件”は起きた。阪神のセンター池田純一(当時の登録名は祥浩)が転倒、打球は彼の頭上を越えて、外野を転々と転がっていったのである。
この間に2人の走者が生還し、巨人は土壇場で逆転した。キャッチャー田淵幸一はミットを地面に叩きつけ、江夏も茫然とセンター方向を見やっている。9回裏の阪神の攻撃をしのぎ、巨人は一矢を報いた。

「怒る気力もありませんでした」

江夏はこう振り返る。
「何しとんのじゃいと思いました。想像がつきませんもの。振り向いたら寝てるんだから。当たり自体はそんなに悪くなかったけど、僕からすれば打った瞬間に正面で捕れる打球です。放心というか怒る気力もありませんでした」
巨人ベンチは大喜び。長嶋は自分が殊勲打を打ったように万歳し、王は椅子を壊すほどの勢いで叩き、喜びを表した。

その後お釣りがくるほど活躍するも優勝は逃す

阪神は落球のあった8月5日以後、巨人に勝てなくなってしまった。それまでは10勝6敗1分けだったのが、以後1勝7敗1分けとカモにされてしまう。
一方、あの落球の後の池田の活躍は凄まじかった。
8月25日の広島戦、延長11回裏にサヨナラ本塁打を放ち、江夏の完封での17勝目をプレゼントした。さらに9月9日。9回裏、同点の2死1、2塁でヤクルト安田からサヨナラ3ランを放ち、再び江夏を勝ち投手にした。ミスの帳消しどころか、お釣りが返ってくるほどの活躍をしてみせたのだ。
「あの借りを返したね」
報道陣に試合後に問いかけられ、「それを言われると一番つらいから、懸命にやっているんですよ」と池田は笑顔で答えた。
このシーズン、阪神と巨人は最終試合までデッドヒートを続けた。
阪神は残り2試合で、10月20日の中日戦、21日の巨人戦を残していた。このどちらかに勝つか、引き分ければ優勝が決まる。
20日の中日戦、先発江夏は4回までに中日打線に3点を取られ、途中降板。阪神は2対4で敗れた。
この中日戦、池田は6番センターで出場し、4回表にセンターオーバーのタイムリー二塁打を放って一時は同点に持ち込んでいる。また、6回に2死1塁で、ライトに大飛球を放った。あわや逆転2ランかという当たりだったが、中日のライト井上弘昭がジャンプしてグラブを差し出すと、そこに打球は収まった。これがもし本塁打になっていれば池田の大殊勲であり、巨人の9連覇を止めた阪神優勝の立役者となって、彼の活躍は後々まで賞賛されたことだろう。これも、池田の野球人生の大きな岐路となるプレーだった。
翌日の巨人戦は雨で流れ、2日後の22日に甲子園球場で行われた。勝ったほうが優勝という大一番だったが、先発上田は球が走らず、2回途中までに4点を奪われ、巨人が9対0で勝って、優勝を決めた。試合後、阪神の不甲斐なさに怒ったファン1000人がグラウンドに乱入し、テレビカメラを壊すなどして20人余りが逮捕される大騒ぎとなった。

打撃でチームに貢献しても、更改ではダウン額提示

この年、ペナントレースが終了してから突然、「あのとき池田がエラーしてなければ、阪神は優勝できた」と言われ始めた。池田は、あるテレビ番組の司会者の一言がきっかけだったと家族に語っている。
冷静に見れば、池田がミスしたのは8月の上旬である。逆転負けしたのは事実だが、この頃はまだペナントレースの真っただ中で、この1敗が優勝を逃した最大の要因というには無理がある。それに後半戦の彼の活躍を忘れている。
驚いたのは池田本人である。なぜ今更、あの話題が蒸し返されなければならないのか、という思いだった。
池田のもとには非難の電話が相次いだ。最初はあまり気にしていなかったが、バッシングは過激化の一途をたどる。取材に対して「あれはエラーじゃない。芝生に足をとられたんだ」「だいぶ前の試合で、優勝を逃したこととは関係ない」と主張しても、マスコミは聞く耳を持たなかった。
この年、池田は勝負強い打撃で何度となくチームを救った。だが年末の契約更改で球団が示した額はダウンだった。理由は「落球でチームに迷惑をかけたから」だった。
このとき池田は家族に言っている。
「人が信じられない。監督もバッシングから守ってくれると思っていたのに、もう人間不信になってしまった」
以来、彼の気持ちは阪神から離れていくことになる。

「もう終わったことやろうが」と応えた江夏

じつは池田はシーズン中から転倒のことを悩んでいた。選手の多くは知らないことだったが、江夏にだけは打ち明けていた。
あの転倒からしばらくたった、甲子園での試合後のことだった。すでに江夏は自宅のマンションに帰っていた。深夜を過ぎてインターホンが鳴った。誰かが急ぎの用事で来たのだろうかと玄関を開けると、そこには池田が深刻な顔で立っていた。
「おいユタカ、あのエラーな……」
いつもの九州男児の元気な声ではない。沈鬱な様子である。
「もう終わったことやろうが。俺はもう何とも思っていないから」
ひとしきり話すと、池田は気分が落ち着いたのか、乗って来た自転車で帰って行った。
「いつも元気にしゃべる池田があんなに沈んだ声を出して落ち込んでいる。思いつめていました。でもシーズンは現実に進んでいるわけだし、僕は何とも思っていない。そう話して、池田も元気になったと思っていたんです」

「おいユタカ、宇宙の向こうに何があると思う」

その後の東京遠征のときだった。夜中の2時過ぎに、池田が突然江夏の部屋にやって来た。
「おいユタカ」
またあのエラーのことを言うのかと思い、つい「うるさい」と言ってしまった。
「ちょっと聞かせてくれ」
池田も譲らない。仕方なく江夏は起きて話を聞いた。池田は寝ぼけ眼の江夏に聞いた。
「ユタカ、宇宙の向こうに何があると思うか」
意味がわからなかった。何を言っているのだろうと思った。だが池田の顔は真剣そのものである。
「俺もわからんよ」
江夏が言うと、池田は呟いた。
「宇宙に壁ってあるのかな。無限じゃないよな」
そんなやり取りが30分か40分続いた。江夏も鬱陶しくなって「早く帰って寝ろ」と声をかけるしかなかった。江夏は言う。
「以前の純一の良さがなくなった。エラーしたことを気に病んで、相当苦しんだんじゃないか。それは見ていてよくわかりました。ふつう野球選手が宇宙の壁がどうしたとか言わないでしょう」
池田の一軍での出番は徐々に少なくなり。昭和53年のオフ、球団から自由契約(戦力外通告)を通告された。このとき32歳、入団から14年、呆気ないプロ生活との別れだった。

引退後もバッシングは続いた

池田が引退後に選んだのはジーンズショップの経営だった。夫人が以前ジーンズ店で働いていたこともあり、思い切って野球以外の仕事をすることにした。もうプロ野球界から離れ、早く忘れたいというのが本音だった。妻のゆかりは語る。
「野球が大好きでプロ野球選手になったのに、あのエラーですごく苦しんで。あれさえなければもっと野球を続けられたのに、という思いだったのではないでしょうか」
池田が第二の人生に向かって必死になっているときも、マスコミはその居所を突き止め、電話で執拗に話を聞き出し、あの転倒のことを記事にしたがった。
池田は「またあの話か、もう話したくない」と夫人に伝え、電話も取ろうとしなくなった。そして野球の話もしなくなった。

MLBワールドシリーズで起きた世紀のトンネル

昭和61年10月26日の夜、池田がスポーツニュースを見ていたときである。このときメジャーリーグでは、ボストン・レッドソックス対ニューヨーク・メッツのワールドシリーズ第6戦が行われていた。
レッドソックスは3勝2敗で優勝に王手をかけていた。試合は延長戦にもつれ込み、10回表にレッドソックスは2点を挙げて、メッツを突き放した。この裏を抑えればレッドソックスの優勝が決まる。10回裏も2死になった。ところがメッツはここから反撃を見せる。3連続ヒットで1点を奪うと、さらにワイルドピッチで同点に追いついた。
2死2塁。次打者ウィルソンは、低めの変化球を打ち損じ、打球は一塁手ビル・バックナーの前に転がった。何の変哲もない緩いゴロだった。これで延長11回に続くと誰もが思った瞬間。バックナーは足をもつれさせゴロをトンネルした。二塁走者が一気に生還し、メッツは土壇場でサヨナラ勝利を収めた。
バックナーのサヨナラエラーで3勝3敗となり、優勝の行方はわからなくなった。
池田が見ていたスポーツニュースは、バックナーのエラーの瞬間を映し出した。球場は騒然となっていた。そして試合後のバックナーのコメントが紹介された。
「これが私の人生です。このエラーを自分の人生の糧にしたい」

「自分もこんなふうに生きたかった」

このとき池田は身を乗り出すようにして、テレビに食いついた。
「そうや、そうや、僕も一緒や。自分もこんなふうに生きたかった」
池田は涙を流しながら夫人に語ったという。ゆかりはこの光景を鮮明に記憶している。
「主人は見ながら立ち上がって、ぼろぼろと涙をこぼしていました」
レッドソックスは第7戦も落とし、ワールドシリーズ制覇を逃した。バックナーのエラーは、「世紀のエラー」「世紀のトンネル」と呼ばれるようになった。
池田は後日言った。
「すごいなあ。自分は何年もあのミスを引きずって、あのせいや、このせいや、監督が自分を守らなかったせいやと思っていたけど、僕とは全然生き方が違う。真正面から受け止めている。素晴らしい。自分も本当はこう生きたかったのに、それができなかった」
このときから池田の姿勢に変化が表れた。妻のゆかりは言う。
「これが自分の人生だと思えるようになったと言っていました。私はあのときの池田ですと今なら言える、忘れよう、逃げようじゃダメなんだ、と」

「イケダ、人生にエラーはつきものだ」

池田は平成13年9月、アメリカアイダホ州のボイジーに住むバックナーに会いにいった。明るい会話の中で、バックナーが急に真面目な顔になる瞬間があった。
「ワールドシリーズが終わってから僕のせいで負けたって騒がれた。どうしてあんなことを言われるのかわからなくて困ったけれど。だけどね、大切なのは自分がそれをどう思うか、その人生にどう向き合うか、そしてその経験をどう今後の人生の糧にするかだと思うよ」
池田も自分の経験を話した。あの転倒のあと、理不尽で激しいバッシングを受けた、と。バックナーの表情がいっそう真剣になり、目が鋭く光った。
「イケダ、人生にエラーはつきものだ。大事なことはそのあとをどう生きるかだ。たかが野球、ゲームじゃないか。長い目で見るとつらいことのほうが大きな意味を持つんだ。あのエラーがあったから、今の人生があるといえるよ」
バックナーはそう話すと、椅子から立ち上がった。二人は握手した。それまで緊張していた池田の顔から笑みがこぼれた。重荷を背負った人生に一区切りがついた瞬間だった。
アイダホから帰宅した池田は、すっきりとした顔で「バックナーは自分が思っていた通りの人だった」と感激まじりにゆかりに伝えた。

池田の転倒は江夏にもその後影響を与えた

以来、池田は、自分の体験を話すことで人を励ましたいと思うようになる。呼ばれればどこへでも行くというのが彼の信念だった。仕事の合間を縫って、PTAや企業の集まりなどでも話した。彼の講演は多くの悩める人の心を打ち、中には泣きながら聞く人もいる。そんな人々との出会いも彼の喜びだった。
バックナーと会って、4年もたたない平成17年5月。池田はいつものように元気に営業先に出て行った。その出先で突然倒れた。くも膜下出血だった。そのまま意識は戻らず、5月17日に59歳で死去した。
池田のあの転倒は、江夏の考え方にも影響を与えた。
「野球にエラーはつきものだけど、若いときは、どうしてもミスを許せないよね。でも何年かやって、エラーとボーンヘッド、この違いが少し見えてきた。ボーンヘッドは全力疾走しない、声を出さないといったこと。僕はこれに対しては厳しかった。だけど一所懸命やった結果としてのエラーに対しては仕方ないと思えるようになった。それが野球を続けてゆく中で自分でも見えてきたということでしょうね」
江夏はそう語った。もちろん池田の落球は後者だと付け加えた。
令和元年5月28日、ビル・バックナーの訃報が届いた。69歳だった。認知症を患っていたという。池田純一とビル・バックナー、二人には海を越えた厚い友情があった。二人の偉大なプレーヤーは、今天国でどのような野球談議をしているだろうか。
---------- 澤宮 優(さわみや・ゆう) ノンフィクション作家 1964年熊本県生まれ。青山学院大学文学部、早稲田大学第二文学部卒。日本文藝家協会会員。『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手吉原正喜の生涯を描き、第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。主な作品に『イップス――魔病を乗り越えたアスリートたち』『スッポンの河さん――伝説のスカウト河西俊雄』『戦国廃城紀行』など。

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