第2次世界大戦で日本が敗戦する直前の1945年7月28日未明、四国沖で偵察飛行中の23歳が敵機の攻撃を受け、消息を絶った。若者は京都帝国大の文学部史学科で学ぶ林尹夫(ただお)。戦局悪化の兵力不足を補う「学徒出陣」で動員された林は戦死する直前まで、日記をつづっていた。
■奇跡的に残ったノート
旧制第三高等学校(現・京都大)時代の40年4月に始まる日記のノート4冊は今、立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に所蔵されている。「奇跡的に残った貴重な資料」。田鍬美紀学芸員は話す。「海軍時代のノートは戦友が上官からの没収を免れて隠し持ち、遺族に届けられた」
「軍国主義が幅を利かせて本音で語りにくい時代に、林にとって日記を書くことが生きている証しだった。だからこそ軍の検閲も恐れず本心を書き連ねた」と学習院大の斉藤利彦教授(教育史)は指摘する。
この日記の全文が戦後75年にあわせ、林の命日に当たる先月28日に刊行された。誠実に生きようとした若い命は、何を思いながら夜空に散ったのか。心の軌跡の全容が、悲惨な戦争の記憶が薄れかけた現代で重く響こうとしている。
■「俺は軍隊に奉仕するものではない」
国内外の文学書や哲学書に広く接した林は、学問への熱い思いを学生時代の日記につづる。しかし学徒出陣で1943年12月に徴兵され、海軍の航空隊に入る。
軍の生活を送る中でも日記を書き続けた。
<俺は軍隊に奉仕するものではない。俺は現代に生きる人間のために働く。しかし俺は何もよき軍人になるために生きるのではない。その点に俺は僅(わずか)な自由意志の途(みち)を見出すのだ>
同盟国のドイツが45年5月に無条件降伏。日本の戦況は厳しさを増した。
<必敗の確信、あ々実に昭和十七年頃よりの確信が今にして実現するさびしさを誰か知らう>
早くから敗戦を予測していたことを明かした上で、迫る死を受け入れていく。
<俺は軍隊に入つて国のためにといふ感情をよびさまされた事は少くも(原文のまま)軍人諸君を通じてといふ限り皆無である。(中略)俺が血肉をわけた人と親しき人々と美しい京都のために戦はうとする感情がおこる>
「林は新しい日本を切り開くための礎になると自分を納得させた」
学習院大の斉藤利彦教授(教育史)は話す。
そして45年7月27日深夜、四国沖に接近した米軍機動部隊の偵察を命じられて出撃。翌28日午前2時過ぎ、室戸岬沖上空から「ツ・セ・ウ(敵戦闘機の追跡を受ける)」との打電後に消息を絶ったとされる。
■次世代の若者へ残した思い
林の日記の一部は67年に、林の兄によって「わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記」(筑摩書房)として出版された。
哲学者の鶴見俊輔は自身の著書で「真実を見抜くまで考えた青年」として注目した。戦没学徒の声としては、遺書を集めた「きけわだつみのこえ」が有名だが、軍の検閲もある中で、日本への失望や恋愛観まで正直に書きとどめた林の日記は反響を呼んだ。
ただ、当時は編集上の都合もあってか、原文の4分の1ほどが削除され、一部改稿もされて刊行された。その後の97年、原本であるノート4冊が、遺族によって立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に寄贈された。
「割愛された部分には、異性や軍隊の同僚に対する過剰な親愛の情を吐露した文も少なくない」。同ミュージアムの田鍬美紀学芸員は話す。4冊目には<わたしがあなたをどれほど愛し焦がれてゐるか、あなたは少しも知らない。否、知らうともしない。真情を吐露して受け入れられぬ寂しさは実に限りないもの>などと書かれた部分に斜線を引き、その横に<ナンテウスツペラナ!>とあり、苦悩の跡がうかがえる。「全文を追うことで、どこまでも己のままに生きることに向き合いながら、あきらめざるをえなかった絶望の深さが鮮明に浮かんでくる」
戦後75年で戦争の実相を伝える証言者も減る中、京都の出版社「三人社」(左京区)が、完全版として公刊することにした。
敗戦を確信した林は、次代の人々に向けて、こんな言葉を残した。
<若きジエネレーション、君達はあまりにも苦しい運命と闘はねばならない。だが頑張つてくれ>
「戦没学徒 林尹夫日記 完全版」は2420円。
◇
学徒出陣とは 戦局悪化による兵力不足を補うため、26歳まで猶予されていた大学、旧制高校などの学生の徴兵猶予が1943年10月に停止された。20歳以上の学徒が徴兵検査を受け、法文系の学徒を中心に兵役に従事した。学徒兵の総数は約13万人との推計もある。
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