終わらぬ夏<5>迫る戦闘機 顔が見えた…物理学者・俳人 有馬朗人さん(89)
1945年の5月頃、実によく晴れた日のことです。静岡県の旧制浜松一中(現浜松北高)の生徒だった私は、勤労動員で飛行機部品の工場にいました。(聞き手 古沢由紀子、写真 鈴木竜三)
空襲警報が鳴り浜名湖の方に逃げていくと、いつもと様子が違う。頻繁に襲来したB29爆撃機ではなく、低空で戦闘機が迫っていたのです。操縦士の顔が見えた瞬間に銃弾が飛んできて、私たち中学生を追いかけてくる。機銃掃射でした。
父の転勤で移り住んだ浜松周辺は軍需工場が多く、度重なる空襲がありました。級友が直撃を受け、近所では若い母親が子を抱いたまま亡くなっていた。
6月の大空襲で我が家も焼けました。翌朝、中心街の橋に多くの遺体が並んでいたのを覚えています。
驚いたのが、7月末の艦砲射撃です。家族で逃れていた山間部からも青い光が見えて、ドカン、ドカンと轟音 が響きました。沖合の戦艦から浜松駅前などに大砲が撃ち込まれたのです。「敵が上陸してくるのでは」と危機感が募りました。
〈竹の皮散る機銃掃射や我狙ひ〉
〈友の死や雲の峯よりB29〉
敗戦から75年の今夏に詠んだ句です。戦争で軍事施設だけが攻撃されるなんて嘘 だ、と今も思う。無辜 の市民が犠牲になる恐ろしさを体験したからです。
動員先 機械は米国製…医者に相談 軍隊は「不適」に
軍人嫌い
14歳の私が勤労動員に駆り出されたのは、1944年秋頃でした。当初は農作業を手伝い、翌年には飛行機部品工場へ。旧制浜松一中の3年に進級しましたが、授業は停止していました。
勤務は昼夜三交代制で、私は旋盤で部品を精密に削る工程を担当。驚いたことに、工作機械の多くは米国製でした。メーカー名は英語で、部品を測るゲージも単位はインチ。「これで日本は勝てるのか」と不安に思いました。中学生の目にも、日米の技術力の差は明らかだったのです。
中学の先生からは、海軍兵学校予科に行くよう勧められていました。ラジオ作りが好きな理科少年だった私は「科学者になり国のために働きたい」と断り続けました。
軍需工場に勤める父は威張る軍人が嫌いで、私も「なぜ戦争で殺し合わなければならないのか」とひそかに疑問を持っていた。医師に相談すると、持病の中耳炎のため軍隊には「不適」と診断書を書いてくれました。戦後、軍の学校に行った友人らは勉強を続けていたと聞きましたが、「軍人嫌い」を貫いたことに悔いはありません。
文化を守る
8月15日の朝、工場に行くと「働かなくていい。旋盤を掃除して」と指示されました。外に集められてラジオ放送を聞き、やっぱり負けたかと落胆する一方で、「米国の文化に駆逐され、日本文化が滅びるのでは」と心配になりました。
その場で友人に「俳句、短歌の雑誌を出そう」と声を掛け、10月頃にはガリ版刷りの文集を発行。自分の俳句も載せました。
〈秋風や我が直したるラジオ鳴る〉
敗戦で真っ先に短歌や俳句のことを考えたのは、浜松一中で受けた授業の影響が大きい。国文学や漢詩の基礎をたたき込まれ、私の知識の根幹になっています。
特に熱心な国語の三浦利三郎先生は、万葉集を教えたことなどが「戦争協力」にあたるとして、終戦直後、地理や体育の教師らと共に教職から追放されそうになりました。生徒思いの先生たちは軍国主義者ではない。私たち生徒が血判の嘆願書を審査機関に提出し、全員が追放を免れました。
戦後の授業は、墨塗りをする教科書すらなく、私は紙の袋を破りノート代わりに使ったものです。三浦先生は古事記や奥の細道をまず1節ずつ読み、生徒に筆記させながら再度読む。さらに難しい語句を黒板に書いて解説し、もう一度読んでくださった。あの時代に古典の良さを伝えた信念に敬服します。1時間に進むのは数行でしたが、徹底的に身にしみましたね。
焼けた愛読書
俳句を始めたのは、肺結核で病床にあった父が喜ぶからでもありました。両親は高浜虚子に師事し、「ホトトギス」に投句する俳人。戦後、医療や食料の事情は逼迫 し、父は46年1月、41歳で亡くなりました。
生活に困窮し、母と2人で級友の家に住み込ませてもらい、小学校の恩師や友人に参考書を借りて勉強に励みました。1年早く中学を終えて東京の旧制武蔵高校へ。当時は珍しくなかった飛び入学です。進学後も殺虫剤散布や家庭教師などのアルバイトに奔走しましたが、物理学者になる希望は変わらなかった。
空襲で焼けた2冊の愛読書は、私の宝物でした。小学生の頃に父が買ってくれた科学者・石原純編集の「世界の謎」は、原子核の構造に関心を持つきっかけに。母にもらった鈴木三重吉の「古事記物語」は、文学への興味を広げました。少年時代の読書が、物理の研究と句作を続ける人生につながったのです。
私は原子核物理学者として、原子力の平和利用を進めるべきだと考えますが、一般市民の大量殺戮 には断じて使うべきでない。
米国の大学で研究していた68年頃、原爆、水爆の開発に中心的に関わった研究者2人と語り合ったことがあります。昼食の席で「なぜ原爆を日本に落としたのか」と質問しました。「戦争を終わらせるためだった」と彼らは言うが、終戦に向けた動きが進んでいた時期で説明がつかない。
科学や技術の進展は、人類が平和になるためのはずです。なぜ武器に使うことを止められなかったのか。日本人として、問い続けなければならないと思っています。
相互理解 平和への道
理事長を務める静岡文化芸術大で、有馬さんは新入生を対象に俳句や詩について講義している。コロナ禍の今年はオンラインで実施した。学生には「西洋だけでなく、日本や中国など東洋の文化に関心を持ってほしい」と語る。
互いの文化を知ることが、平和の希求につながるとの信念がある。浜松一中の授業で漢詩に親しみ、「中国との戦争に疑問を抱いた」体験を持つからだ。
有馬さんの回想の中で、教科書すらなかった終戦直後の「白熱授業」は光り輝いて見える。敬愛する先生の熱弁は、苦難を乗り越え、学問の道を歩む原動力になったのだろう。(古沢)
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