2020年8月4日火曜日

山本レイ子さんの法要で手を合わせる夫の守さん(中央)=熊本県芦北町で2020年8月4日午前9時2分、徳野仁子撮影© 毎日新聞 提供 山本レイ子さんの法要で手を合わせる夫の守さん(中央)=熊本県芦北町で2020年8月4日午前9時2分、徳野仁子撮影  「1カ月はあっという間だった」。熊本県芦北町箙瀬(えびらせ)地区の自宅で亡くなった山本レイ子さん(当時78歳)の夫守さん(75)は、初めての月命日となった4日午前8時半、愛妻の遺骨が納められ、自らの避難先でもある町内の寺で仏前に手を合わせた。
 山本さん夫婦は5月に長男功さん(当時48歳)を亡くし、7月3日に四十九日法要を済ませたばかりだった。その日は大雨の予想が外れ「功が守ってくれたんかね」と胸をなでおろすレイ子さんの表情を覚えている。しかし、深夜から降り続いた雨で翌朝には球磨川の水位が急激に増し、自宅前まで迫った。
避難のさなか、レイ子さんはふいに自宅へきびすを返した。濁流にのまれそうになった守さんは間一髪で自宅の屋根に逃れた。だがレイ子さんが再び戻ってくることはなく、水が引いた7月4日の午後、自宅で見つかった遺体は何かを抱えるような姿だった。「功の位牌(いはい)やお骨を持とうとしていたんじゃないか」。そう信じる守さんは8日後、自宅の泥の中から功さんの遺骨を見つけ出した。
 「妻と長男を一緒に納骨できてよかったが、2人を続けて亡くし、時間がたつにつれて1人になったことを実感している」と守さん。生活再建に向けて少しずつ家の片付けを進めているが「また一から考えないと」と言葉少なに語った。
 芦北町では入江たえ子さん(69)、竜一さん(42)親子と堀口ツギエさん(93)が土砂崩れで亡くなった田川地区でも住民が涙ながらに手を合わせた。
 球磨村で被災した40世帯93人(3日現在)が避難生活を送る人吉市立第一中でも追悼の祈りがささげられた。神瀬(こうのせ)地区から避難中の日当(ひあて)秀親さん(54)は、亡くなったいとこの園田フサコさん(当時80歳)へ思いをはせた。日当さんも被災の4日後に孤立した集落から救出された後、避難所などを転々とし、第一中で4カ所目。生活再建の見通しは立たない。「いつかは戻りたいが、災害が繰り返すのならやっぱり住み続けられない」と吐露した。
 人吉市の犠牲者20人のうち3人が亡くなった下青井町。「宮原はり灸(きゅう)院」院長の宮原信晃さん(65)はこの1カ月、2階まで浸水して骨組みだけになった治療院でけが人を受け入れられず、じくじたる思いを抱えてきた。自宅の泥出しなどをしていてぎっくり腰になったり、体を痛めたりした住民らが運び込まれても施術できなかった。
 窮状を知った県内外の団体からはりときゅうの提供を受け、7月27日から球磨村民の避難所になっている旧多良木高(熊本県多良木町)に赴いて無償で治療を施した。8月3日には人吉市内の別の場所を借りて治療院を再開。年末に元の場所に戻ることを目指す。「今は前だけ見て、治療でみんなの力になりたい」
 人吉市中心部にあり、2人が亡くなった繁華街の紺屋町でも店舗の片付けに追われる被災者が手を止めて、犠牲者の冥福を祈った。炉端焼き「孝八」の3代目経営者、尾方克徳さん(42)は今も泥出しなどの後片付けに追われて営業再開のめどが立っていない。「とりあえず片付けを終えてからがスタート。長い闘いになるのか、ゴールが見えない」と汗を拭った。
 一方、4人が犠牲になった八代市の坂本町地区では、球磨川沿いの「鶴之湯旅館」4代目、土山大典さん(38)がボランティアの手を借りながら、玄関などの泥を高圧洗浄機で落とす作業に汗を流した。
 1カ月前、押し寄せた水は1階の大部分をのみ込んだ。宿泊客を急いで起こし、すぐ裏にあるJR肥薩線葉木トンネルの上によじ登った。旅館のガラス窓が次々に割れる音を聞きながら半日を過ごした。水が引いて戻ると1階はほとんど骨組みだけになっていた。
 旅館は1954年に曽祖父が開業。一時休業後、夏は蚊帳、冬は火鉢といった昭和スタイルを満喫できる木造3階建て旅館として営業再開してまだ4年。「元の姿に戻すことで、坂本町を少しでも元気づけたい」。土山さんは自らを奮い立たせた。【浅野孝仁、杣谷健太、栗栖由喜、成松秋穂】

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